2009年12月3日木曜日

ストリートビューが新潟、岡山、広島、福岡、熊本にエリア拡大しました

っていうんで、さっそく阿蘇はどうなんだろうと遊びに飛んでみました。

わたしはパソコンも初めてまだ四ヶ月のド素人なんです。ストリートビューそのものも一度いじってみたんですが分かんなくって、そのまんま投げ出してました。今度もそうなるだろうなぁ、と思ってたら意外や意外、すらすら先に進めました。
というのは右に置いている『私のスター付きアイテム』から『グーグル「ストリートビュー」エリアを拡大 福岡も』をクリック、『Google マップ』から『今すぐトライ』との表示が下線つきであったんでクリック、と素直に従っていったら『ユーチューブの画面による説明』があって方法が分かり、あっけなく出来ちゃった、っていうわけ。


おもしろかった。
阿蘇山頂からパノラマラインを下って阿蘇ファームランドに行きました。

というのは、師範の思い出とする比翼塚は、このファーランドの真ん前だからなんです。
がしかし、正面すぎたみたい。パノラマラインを下っていって私の山小屋の屋根が見えたとたんに、ストリートビューの画面によるパノラマラインの道路もファームランドの中に入っちゃった。

「ここは私有地だろ、なんで道路から外れるんだよ、オレの山小屋の前を通れよ」

って怒鳴ったって、何度やりなおしたってファームランドに入って、出たときには山小屋も通り過ぎている。
屋根だけ、印刷しました。






                                  

2009年8月17日月曜日

北朝鮮による拉致問題

福岡市から泳ぎに行くなら芥屋(けや)か勝馬(かつま)の海水浴場だ。ドライブコースでもある。
博多湾から右に海を見て走れば、生の松原から長浜から芥屋海水浴場の入り江に着く。
左に海辺を望んで海の中道に入り志賀島を時計回りにグルリとすれば勝馬海水浴場となる。
芥屋は小さな子供さんを連れた家族向き。勝馬は大人っていえば大人向き。
私が住んだ姪の浜から芥屋まで車を飛ばして1時間くらいだったと思う。海沿いのコースが好きだった。
この海水浴場に着く手前に可也ノ松原という綺麗な砂浜が続いている、これこそ海水浴場って場所があるんですが、遊泳禁止。

ま、遊びについては他に沢山の人たちが投稿するだろう。私は人が書かない、書けない分野に入る。
この可也を過ぎて右に入っていけば大祖神社から駐車場らしき所で行き止まりとなる。
防波堤に着く。右手には可也ノ松原が広がっている。なんで泳げないのか腹も立つ景色です。
真ん前へとテトラポットがずいぶん沢山ならべられている。
左を見れば、芥屋海水浴場の入り江を構成する突き出た小山がある。芥屋の大門(おど)だ。
車を止めた正面には防波堤が高く築かれ、上らないと海は見えない。

1970年代の中ごろ、真夜中、ここに私は居た。月も星も出ていない。真っ暗闇だった。
車のライトを頼りに防波堤に上った。テトラポットも波打ち際も空も何にも区別がつかない。
と、暗闇を際立たせて小さなライトが点滅し始めた。海の中からだろう、としか分からない。
と、芥屋の大門の小山の上から、これに答えるようにして、点滅が始まった。
モールス信号かな、としか判断できない。
こんな時間、場所でと考えても、私たちには関係ないことだった。
車に戻った。
少しすると、車の後ろ、それも左右から、身を屈めて近づいてくる何人かの気配に気づいた。この駐車場は砂利でした。アスファルトだったら気づけなかったでしょう。ミラーには何も写らない。黒っぽい服装し゜ゃないと、あそこまで闇に溶け込むのは無理だ。
エンジンをかけた。
途端に逃げさる足音が騒々しかった。

別に気にも留めない歳月が流れました。

横田めぐみさんの事件が、佐渡の方の事件が報道されたのは何時だったんでしょう。
このなかから、北九州の女性が、この芥屋の私と同じ場所から拉致されたという報道を見聞きした記憶があるんですが、私の記憶違いなんでしょうか。
だって、拉致被害者の17名には北九州も芥屋も何も出てこないから。
ブログで最初に拉致された方は1977年とあるが、私の件は1年は早いと思う。

めぐみさんは勿論のこと、全員が1日でも早く日本に帰ってこられる日を願っております。


                        



2009年8月1日土曜日

19年も淡交会の師範に関係する記憶を喪失していた

面を断つ一重まぶたの緞帳が、涙に濡れてびっしょりになるのは源流の雲が宵を上襲として太陽をも支配しているのが原因だと分かっても、噤む闇路の暗面を描写したがっているのが何時ごろの何者とは分からない、わたしだった。
そんな中、儀式めかして生けた紫陽花の参列者に囲まれ、白詰草の花鬘をかぶった七日前の許しあいから、辛うじて、その者とうずうずしていた。
だからか、黒仕立てのサテンの織物な夜へと清涼感で怯える保護鳥って感じも人間の私だった。
込みあげる風月の温もりに誘われるままに打ち解けたくても、現の闇に吹かす心の雲は物恐ろしきばかりであり、山が神々しい10年の歳月の十に八九は、「・・・あなた・・・」と、囁く顔を解き明かせない辛さにて、声真似に付和雷同している。



女々しいと笑わば笑え後の月うらやましかろ一つに二人




「テッペンカケタノ」のホトトギスは、「脳みそ欠けたの」と糾弾する。
かわいらしいコジュケイの「チョットコーイ」に聞きふけるも、「呼ばないで」と高飛車な言葉を投げて、しかとした。
言うことない持ち崩した構図で、のさばり返っていた。

こうした中での、ある年の話です。
光立つ比翼塚は奇奇怪怪なる旬の者らが目白押しに開けた。
リンドウに春ランが雲雀さえずる東風に、顔を覗かせる。
散歩道に添い寝する蕗の薹。頑張る鶯が可愛いが、じれったい。
清い流れの谷川に冬ざれで立ち明かす辛夷が、青雲と眺めの空に漫ろ歩く。
心温まる影の包容力で休息の丘が芽吹いても、梅は、やっとの思いで走り惑う。
沢辺に椿の群生は木々てんでんばらばらに振り絞るに舞い奏でている。
流れる水に吹き遊び、海を透かし織り、染め分ける。極めに蕾む。
名残りの雪が妖艶に、身動きも払いのけて、じなつく。
そして、わらびにぜんまいが春の気で許しの色する。
寝坊した日は蜩が、郭公が夢心地に目覚ましかける。

供養しな塚の絵的は「あら」の歌、
岩群青の夕霧が円卓会議で沈み繰りする。
色めかす夕日影から、匂やかな女の雨には寝たふりした仮初めの戯れは、
・・・・・まさに七夕の月も、七日だったのです。

この日の工房は何時になく静寂の深度にありました。
雨風に頭を衝かれる荒れた草の厳つい深緑も好い味だした趣から、
むずむずと寄りかかる斑に立つ霧そのものの夜の肌が、
開け放つ侘び住まいの窓より静々と礼節な湿度でにじり寄るも、嗜みでした。

「・・・いないいないばあ・・・」したいのか、
吸い寄せられるように座り心地を捨て、窓辺に歩み寄って、
千草の原を連山に追い込みながらの水滴も濡れた色を朧に染めて対面するつもりの、
甘辛なフェロモンの罠も見飽きた背景で待ち受けるのは、・・・何?
と、霧の緞帳に予期する、
雨上がりで分厚い漆黒の雨雲でも低からずに吹っ切れてるだろうと読み捨てての、
埋もれ身の心組みだったんですが・・・・・。

これを食卓に例えるならば、
ちょうど椎茸ふうに、自我を殺した松茸である。
途轍もなく並外れた快挙の顔出しにしばれる。
黒雲から透かし彫る満月を天心として、
心から楽しむ喜びへと光沢を吹き消した珠玉の同心円で咲き誇るのは、
虹ならぬ暈に色素を滲ませるも、
野暮な御託も拭き消した芸術性で、佇立していた。

なんだかんだと考え出さず、硯の海に溺れ、仄々しくも一寸法師にされて霞み渡るを観るは、
悩殺される朧月夜のマリッジリングへと魂の夜空だった。
それも、それはそれとしてのそれっきりの一夜限りで終わらず、
七夜もに繋ぎ合わせてくれたから、懸け橋となってくれたのです。

十五年ぶりらしい火星の大接近が明けて晴天の夜から月と三つ編みになり、
心得た顔でもてなしてくれる星屑に酔いしれて、
天気だけでもいいから、「毎日欠かさず、日記に一行は」を、
生かされている当直日誌が何故なのかも分からずに、書いていました。

誰のかも分からずに毎食で意味させてしまう陰膳が、やっと飲み込めました。
呼び起こされて、「居た天使だ!」と、
愛で逢いの月に、「彼女する!」へと、にこやかに思い集められました。

完全に思い出せるまでには更に八年の歳月が流れます。また忘れるのですが。
が、翌月の六回忌には東京から出席した弟子の娘とも偶然に知り合えて、師範の思い出話に花を咲かせられました。この弟子の子との出会いがなければ、私は間違いなく、立ち直れなかったでしょう。
弟子の娘と別れてからは、また師範を忘れ、次に思い出した時は2000年にもなっておりました。               




暮れなずむ烏瓜持つ冬の野は人魂なりし白骨の命




野の花に見えざる素顔冬の蝶妻恋い鳥(雉)は駆けずるばかり




森の弁しっとり刻むおかんむり匂い溢るる今日は二度なし




花筏利休鼠寄り添いて父母へと流れ男に映る





身で詫びる無言詣でやまだ七年





そういえば、今夜は大濠花火大会だ。
ポンポン上がってる。昔は毎年楽しみにして、出かけたものだが・・・。
柔らかい活字も入れとかないと何だか頭が痛くなったような気が・・・・・
私は、この大濠公園そばの大濠高校出身です。思い出した。








2009年7月29日水曜日

余命2週の宣告は乳がんだった

彼女は福岡女学院高校から国際基督教大学の寮生として、4年間を東京で暮らした。当時の女学院には4年制がなかったのである。27年と1ヶ月の短すぎる人生において、この4年間だけが福岡を離れていた時期となる。洗礼も受けていたフランシスコ修道会の在家信者でもあり、日曜礼拝も欠かさなかった。この日は朝早くに家を出て、遠くの教会まで行き、取って返して、二日市温泉の老舗旅館で茶を教えていたのである。

この子の温厚さ、いつもは活気で色めきたつ。発するは純情を呼び寄せて引き連れる反応熱っぽいが、人前では私が心恥ずかしく、連れ立つてると感服するのにも忙しくなってしまい、共鳴器してた。
全身で幾つもの音叉を持ち合わせている師範。さすがの裏千家だったのです。
茶会の和服では、みっともないからと、大きな胸をサラシで締め上げていた。
ロザリオも見えないように気をつけていた。
優婉な涼やかさにて、娘気質な硬度。男の影によってでもブランド物に飾られるでもなく、自ら発光して尚且つ動じない恒星に、私は垣間見ていた。

毎週日曜の茶会にて、
「お弟子さんから、『この頃、綺麗になられて・・・』と言われる妹は凄く喜んでいます」
との姉の、“お分かり?‘’の意味を、
私は引きつらせてしまいます。

目鼻立ちが端正な色香へと張り切って嬉しそうな心月の眼差しは、ためらわない撫子の若葉の色に。
訪れ捨てて好し風って感じで、いたずらしたい。
これだけで、清み声で弾んだでしょう。赤み走ったでしょう。

いつものように師範の家で弾む会話の中、
なんてったって唇が、その艶々していた二片が尋常じゃないことに気がついた。
三月の頃だった。年末くらいから訳あって会えない日々が続いていた私たちでした。
虫の知らせだったのでしょうか。
若葉風へと在り在り。風模様に心をその方に向かわせる段落とすべきだった。
梅暦にて捲られる辛夷の大花が、花の知らせかのように折れ目を茶色に変えたのは何故?
顔色から易々と強請り取れたんですが・・・。

直ぐ、隣りに居た師範の義兄にあたる眼科医に尋ねたんですが、
「化粧しないからだ」とか「野点のせいだ」と、一笑に付されてしまいました。

この時、なぜ押し捲らなかったのか、私の責任です。
場で駄目だったんなら、医者なんて腐るほど人脈にしてんだから、いくらでも方法はあった。
福岡県医師会、福岡市医師会、久留米医師会、大牟田医師会。
あまり身近にあると・・・・・医者の不養生、という言葉もありますし。

しかし、問題は年末あたりから何故、会えなくなったのかってことなんだ。
このあとも、また会えない日々が続いた。
         
五月、GW明け八日の夜です。
約束通り、師範に会いに行った私は教えられたのです。

「真夜中、久留米大学病院に搬送した」と。

「病院へ行きます」
テーブルを思いっきり蹴飛ばしながら立ち上がった私は、

「慌てるなっ。面会時間は過ぎてるし、麻酔で寝ている。明日は朝から手術で、終わっても麻酔が効いて寝ている。結果は朝、医院の方に入るようになってるから、夜、自宅にくればいい。教えてやる」

その夜、聞かされた。

「乳がん。あと2週間の命。医者の判断だった。手遅れ。メスを入れただけで手の施しようがなく、そのまま縫合した。綺麗な胸だったらしい。一月でも早ければ。痛みはあったはずだ。妹には教えない。最期まで隠し通す。病室には面会謝絶の札が掛かっていて行っても会えない。俺が伝えておいてやる」


聖女クララに透明な師範に生まれ変わったあと、
遺品の整理をしておられた姉は見つける。

癌に関する新刊を・・・・・・・・・・





良い子ぶる面の造りに古のひ弱な裸ひまわりを看る
     
                        
                                 
          
           
                                  




                    

2009年7月24日金曜日

岩田屋久留米店と西鉄久留米駅との相互依存

西鉄久留米駅の開業は1924年だった。ここから99年間の賃貸契約が
師範の家と締結された。師範の父親が周辺の土地を売却して、駅建物から
名店街、ホームに至る全てを建設されて、家主となられたのである。
岩田屋さんについては、裏千家の淡交会九州支部長だった故・中牟田喜一
朗氏の先代が、土地は買い上げる、と頑として譲歩されなかったらしい。
これは旧館の話であり、岩田屋さんには売却されている。

時は過ぎ、師範が私に笑顔をふりまいてくれていた日々には、今の岩田屋
の土地は更地のままに駐車場として、師範の家の所有地でした。たぶん、
売却されたのでしょう。
西鉄久留米駅前では再開発事業がありました。このあと、99年の契約が
どうなったのか、私は知らない。

大牟田には表千家の会社社長がおられた。
「騒々しいおばさんがたとの茶よりも、男同士の茶がやりたい」
「みんな仕事があって・・・」
と寂しげにしておられた。
社長から茶室に誘われた途端、私は帰るを考えてしまった。
恥ずかしいことばかり思い出してしまいます。
末席を汚すことで、あたふたしないくらいには師範に教えてほしかった。

この娘の師範たる立場について、
「わたしでもなれないのに」
「俺でもなれないのに」
という冗談っぽい言い方だが、本音の部分を耳にする場があった。
師範は下を向いてしまう。
私が思うには、
違うんだ。まったく。
茶と、仕事との切り替えというか、それぞれに纏っておられる、醸し出さ
れる大気、オーラが全く異なる。同一人物とは思えないほど、にだ。
それに、純粋さ。
・・・・・あんまり書いたら怒られる。

故人からの教えを思い出します。
「意味の無いカネをあげるものではない。人はそれを当てにするようにな
る」
「カネは不幸を退ける道具物」
・・・・・佇立・・・・・




パソコン・キーボード・変換など先月の9日から全てを始めました。
ネットに繋がったのは20日。
痩せました。筋肉がおちたのがわかる。
1分間で60回の腕立て伏せ、踵を上げてのスクワットは50回やってた
けれど、今はとても出来ない。
成りすまし、って奴でかなり遠回りしてしまいました。
投稿にしても、やっと打ち終えたと思ったら、すべて消えてしまうという
のが何回か続いたんですが、グーグルに変えてからはスムーズです。

数日前、過去の投稿分も書き上げたばかりの分からも、活字が飛び飛びに
□で隠されてしまいました。がっかりして、もう寝ました。
ところが翌朝パソコンを開いてみると、いつもとは違うページに始まり、
全てが元通りになってました。バンザイです。
世界観が違う。すばらしい。




白骨樹<その他>を〆る眼差しか姿尊く響け実生に

2009年7月20日月曜日

茶を楽しむ

裏千家、表千家、武者小路千家。私は何ひとつ知らない。分からない。
この身に刻み付けてくれたのは、
「おいしかった」
これだけでは駄目だったのでしょうか。


ここから文中に取り込むのは俳句や短歌じゃなくって、語句に過ぎず、
叫び、接着剤と捉えてください。
生き恥を曝します。

別に空ありてしとしと綺う雨。

感情と意志にポロポロ脆く、単調でも果敢に尋ねる冒険心ある色んな
雲雨の色々を、風の子の根問いで嗜もうとはしなかった。

宵いずこ紅白芽吹く梅襲。

「ふたりだけで話をしたら・・・」

妹を諭しておられた姉は、
恥ずかしがる声音の慎ましさも、わたしの様子へ絡み合わせているの
にの、不自然な意外と思う顔つきに、
「ふたりだけで話をしなさいっ!」
呆れて、さっさと立ち去られるところを、
開けっ放しな、"えっ"にて、
「おねえさん!」
肝を潰した千尋の谷から見上げる一方で姉のスカートに縋り、びっく
り箱のバネ仕掛けみたいに甘えて放すまいとしたが、誰が見ても一目
瞭然の、その心積もりとは裏腹の恋という着物には苛立ちで打ち捨て
られた。
上り鮎みたいな師範だった。本人はそれで満足したようだ。

突如として煌めきやがった。
ぎこちなさなんて仕切り直し、スカッと、天目酒を控えるように説か
れていても、薫りも降り注ぐかの満開の桜の木の下で双方の納得ずく
に自由な聞き上手にと、こんもり生う匂いを大気の満開にて、すっく
と曜変させる。

のめった私ごときが、のたうつキーボードで埋め立ててしまう沙汰に
は、道の内幕の方々も呆れ返られるかも、とは無恥でも下せるつもり
ですが、茶を持ち合わさない案山子にしてみれば、夢の直路。
豊かに振舞う面立ちだった。
陽だまりな会話が生唾へと寄木細工する。

付け入る綻びが何処にもなかった。
揺れ動く最中にも、である。
それも私は未熟者でも画商だ。なのに見つけられなかった。
何故だか足の甲でふっくらさせた反りの尚更を、ぴくぴく悩ましげに
物思う。これは水のわななきして汗に濃やかな愛情の、秘めやかに牡
丹雪する春の使いだったんでしょうか。
適度を配り分ける密度は松園画伯の一幅だった、と無双の夜長で見え
隠れする今です。


この娘との結婚について画商仲間に相談したことがあった。
「うまく運べば凄い画商になれる」
信用もあがり、人脈もできるみたいにも付け加えられたが、計算され
るのが嫌で嫌で堪らなかった。

「おいしい」"立ち居振る舞いが言葉では言い表せないほど凄い"
だけでは駄目なのでしょうか。
なぜ、ここにカネやら人脈が入り込むんだ。
私が欲しかったのは、うまい茶と女としての裏千家師範だけだった。

師範を逝かせたばかりのころ、中洲で最後の〆に寿司やに入った。
茶に、つい「おいしい」と言ってしまったら、奥から年配のご婦人が
顔を出される。少し言葉を交わした。
常日頃から茶の大切さを店の若い女性にいっておられたみたいです。
日は過ぎて、トロや甘えび目当てではなく、茶を目当てに何度か足を
運んだが無駄足でした。
おいしい茶は、これっきりになっている寂しすぎる私です。





やすらぎの席にくちづけ横たわり忘れな草のいつまで草の





闇裂くは死出の田長(ホトトギス)と伝え聞き嘆きの霧も正しく堕ちる











阿蘇ファ-ムランドの楽しみかた  3

2で書いた、濃霧は雲の中に入ってしまうという意味です。
通じたとは思いますが、ブログという表現法に足を踏み入れた以上、
改めます。


波打ち際の雲、私の場合は膝下だった。
ちようど良い深さだった。
深すぎたら、楽しめずに溺れてしまった。
この浅さでも、向こうずねさえ見えない。
草原だから踏んだ感触は柔らかい。革靴よりゴムが好いですよ。

満ちるのは早い。あれよあれよという間に雲の中に取り込まれる。
何も見えなくなる。あたり一面、真っ白。
むくむくした雲の波路は足早に通りすぎ、溺れてしまう。
                
                
                              
                
                
まだ郭公や梟は鳴いてくれてるのでしょうか。

私が住んでいたのは、阿蘇ファームランドが出来る前でした。
見えるのは丘を幾つか越えたところの京大火山研究所と、左手に遥かの
阿蘇観光ホテルだけという静けさだったんですが、今は森が無い所か、
やたらに家が建ってる。まるで村落だ。

阿蘇パノラマラインを横切ったところの、とんぼの郷やエリーゼと天理
教の間で、レーシングカートやらテニスコートを経営してました。
名は、青春キャンパスといいます。
ここで暮らした10年においての、とある年の旬を手記から抜粋します。
何かの参考になれれば幸いです。
ちなみに、桜と梅は久留米市という所の植木市で購入した樹木であり、
山のものではありません。びっくりされる時期になります。
他はすべて山のものです。


 春     4月と5月
 夏     8月
 秋     9月と10月
 冬     1・2・3月と11・12月
 雨季    5・6・7・8・9・10月

 雲海 5月から少し、7月13日にかけて。
       だが、秋が濃い。9月中旬から11月にかけて。
       記述した雲の波の日は、10月20日でした。
 
 うぐいす・ひばり     2月15日から3月
 りんどう・春ラン     3月12日
 蕗のとう         3月17日
 辛夷           3月28日
 梅            4月5日
 藪椿           4月6日
 桜            4月16日
 わらび・ぜんまい     4月20日
 ひぐらし         5月2日から7月29日、8月
 郭公           5月12日から7月26日、8月

 朧月           4月から5月12日から7月15日から8月初め
 茜            9月から10月19日から11月
 紅葉           10月31日から11月初め


これは私の、感覚です。

ランドは高低差があります。
鳥の声、景色、風の色、自然に浸りたい方には一番上の駐車場を利用され
るのが好いと思います。ぜんぜん違うから。
つまり、雲海を掴む丘の下の駐車場です。

それじゃね、気をつけていってらっしゃい。                                 


梟のくぐもり声に戦慄くも郭公祓う朝湯朝酒

       




                                



                                

2009年7月17日金曜日

阿蘇ファームランドの楽しみかた 2

ミルクファ-ムと駐車場の間にある道に立ってください。
阿蘇五岳や草千里を背にして立てば、顔を上げると外輪山に囲まれている
のが良く理解される位置だと思います。
右手になる駐車場の向こう、先には丘が広がっているはずです。
といっても、100や200メ-トルで十分です。
この中から探すんです。もう運まかせ。日ごろの行い??・・・ですね。
迷われたら、高い方をお勧めします。
下は見やすいし、走りやすい。
見晴らしは悪いほう、というか連なってきている丘を望むんですよ。

雲海の波打ち際では、
手首まで波に突っ込んだら、
指をいっぱいに曲げ立って、指はまったく見えなくなります。
それだけの濃密な雲だから、
乗る、歩く、なんて書けるんだ。
そして、空を見上げると、今日も日本晴れ。
だから素晴らしいし、帰りの濃霧に気をつけないといけないんです。

これについては過去の手記をもういちど読み直して、
抜けている箇所、書いておかないといけない言葉を、8月中には、
必ず、書き込みます。約束するから待っていてください。

待てない人、何か知りたい人はメールしてください。

じゃ・・・・・




日本晴れ天使のあの子下りてきて忙しいやら落ち着かぬやら






                                            
                       
                                 
                                 

2009年7月15日水曜日

阿蘇ファームランドの楽しみ方・雲に乗る、雲の上を歩く。その1

ランドが作られる前、ここには国立牧場がありました。
草丈1メートルくらいの牧草が風になびき、大地と共に生きるさまは絵にな
ってた。アメ車の、トラクターやら何やら特殊車両の仕事ぶりにはオールデ
ィズのアメリカ映画を彷彿とさせる一齣を見せてくれる日々もありました。
放牧牛が集まりだしたら雨になるし、散り散りになってったら雨はあがる。
山の天気は変わりやすい。
俵山を見てください。熊本方面から行かれるんでしたら走ってきた道の方向
です。登山道を前にして右手の山になります。俵山上空の天気が少し未来な
のランドの遊び・・・分かるとおもしろい日に出会えるかも。

梅雨が明けます。8月になり、子供たちの季節です。
太陽が眩しくても、暑くても、日陰に入れば、そこに秋。下界とは全く違う感覚です。先入観は捨て、違う自分を見つけてください。
カルデラに踏み込んだ、鍋のなか。人間の小ささを自然から教えてもらいま
しょう。一般的に標高が100メートル高くなるとコンマ6から7度低くな
ると言われますが、そんなもんじゃなかった。最低気温だって山頂より断然
低かったりした。外輪山に包み込まれているからでしょうか。
8月の夜でも掛け布団は必要です。風邪をひかないように気をつけて。下界
は熱帯夜でも、ランドは違う。

グリーン・クリスマスの夏は8月で完璧に終わる。9月は初秋。中旬は秋。
椿の群生林がありますが、季節外れ。
音色のダイヤモンドダストには早すぎる。
で、今回は雲を書きます。
雲は乗れるし、歩けるし、掴めます。
畳一枚とか二枚とかの、地上1メートルくらいで泳いでくる真綿を丸めた
ような雲と出会うには、雲にも道があるみたいだし、それに自分自身から
作らないといけないから一朝一夕にはいかず、掴むのは少し難しい。
ので、歩きを教えます。


登山道は渡らないでください。
阿蘇ファームランドの裏手の丘から、ひとつ選んでみてください。
選び方は、まず、相手は雲海だということ。
雲海はランドより下で生まれます。
ランドより上になると霧や雲になってしまいます。
ランドがちょうど波打ち際になる位置です。
阿蘇市とか下の町がみえても駄目です。
目の前に低い丘が連なって上ってきてる丘が良い。

こんな丘を探したら、次は予報です。
今は雲海予報が出されます。多分では駄目。年に数回は確実な予報がでま
す。というのも、その丘に行くのは未だ夜が明けない暗闇だから。
雲海は朝日と共に昇るんです。波打ち際に出会える確率が高くないと眠い
目を擦りながら行っても、がっかりされるでしょう?

最も大切なのは、ランドから車で丘に行かないこと。
必ず、歩いてください。濃い雲海では濃霧になります。運転は危険です。
視界数メートルは誰でも運転できない。
だから、帰り道は手探りになると思って、明るい時間にしっかり覚えてお
いてください。
雲の波に会えても、楽しみはせいぜい1分。
刹那ゆえ、記憶に刻まれる。

雲海については、2でも詳しく書きます。
まだ季節には少し早いから時間はあるでしょう。

もう一つの狙い目を書きます。
それは天気の変わり目を選ぶことです。
雨が続いたあと、とか外で遊べない天気が続いたあとは山そのものが生き
生きと甦り始めます。その色、匂い、移ろいは人それぞれに何かをもたら
してくれると思います。
ランドから車で動き回るのもいいでしょうが、周辺を、そんな天気のなか
少し濡れながら散歩されるのも、なにかしら発見があるかも・・・


_____今宵もか陰と霞のふたりきり夜明けまでもの騒ぐ火影で_____                                 







2009年7月10日金曜日

裏千家について

私にとって、茶は飢餓感を埋めてくれる席でした。

仕事が順調であればあるほど、何処かに飢える。
埋め合わせてくれる何かを探す。
解放感だと誤魔化して、遊びに走るのです。
走れば走るほどに渇くのに、それでも走らねばならない。
中洲に女、車、モノ、カネを求めるほど飢えは激しくなってった。
喘いでいた。
こんな時、飢餓感の一切合財を”無”にしてくれたのが、

<この娘の茶>だったんだ。

「お茶」と言った私に、
「むやみに”お”を付けてはいけません」と、師範の姉は教えてくれました。
これ以来、私は、
<お、を付けない>
茶について私が書くのは、この二つしかありません。
考えない。
裏千家というより、<師範>を冒涜するに他ならない、と感じるから。
裏千家に関する記述は、これで終わりです。