2009年8月17日月曜日

北朝鮮による拉致問題

福岡市から泳ぎに行くなら芥屋(けや)か勝馬(かつま)の海水浴場だ。ドライブコースでもある。
博多湾から右に海を見て走れば、生の松原から長浜から芥屋海水浴場の入り江に着く。
左に海辺を望んで海の中道に入り志賀島を時計回りにグルリとすれば勝馬海水浴場となる。
芥屋は小さな子供さんを連れた家族向き。勝馬は大人っていえば大人向き。
私が住んだ姪の浜から芥屋まで車を飛ばして1時間くらいだったと思う。海沿いのコースが好きだった。
この海水浴場に着く手前に可也ノ松原という綺麗な砂浜が続いている、これこそ海水浴場って場所があるんですが、遊泳禁止。

ま、遊びについては他に沢山の人たちが投稿するだろう。私は人が書かない、書けない分野に入る。
この可也を過ぎて右に入っていけば大祖神社から駐車場らしき所で行き止まりとなる。
防波堤に着く。右手には可也ノ松原が広がっている。なんで泳げないのか腹も立つ景色です。
真ん前へとテトラポットがずいぶん沢山ならべられている。
左を見れば、芥屋海水浴場の入り江を構成する突き出た小山がある。芥屋の大門(おど)だ。
車を止めた正面には防波堤が高く築かれ、上らないと海は見えない。

1970年代の中ごろ、真夜中、ここに私は居た。月も星も出ていない。真っ暗闇だった。
車のライトを頼りに防波堤に上った。テトラポットも波打ち際も空も何にも区別がつかない。
と、暗闇を際立たせて小さなライトが点滅し始めた。海の中からだろう、としか分からない。
と、芥屋の大門の小山の上から、これに答えるようにして、点滅が始まった。
モールス信号かな、としか判断できない。
こんな時間、場所でと考えても、私たちには関係ないことだった。
車に戻った。
少しすると、車の後ろ、それも左右から、身を屈めて近づいてくる何人かの気配に気づいた。この駐車場は砂利でした。アスファルトだったら気づけなかったでしょう。ミラーには何も写らない。黒っぽい服装し゜ゃないと、あそこまで闇に溶け込むのは無理だ。
エンジンをかけた。
途端に逃げさる足音が騒々しかった。

別に気にも留めない歳月が流れました。

横田めぐみさんの事件が、佐渡の方の事件が報道されたのは何時だったんでしょう。
このなかから、北九州の女性が、この芥屋の私と同じ場所から拉致されたという報道を見聞きした記憶があるんですが、私の記憶違いなんでしょうか。
だって、拉致被害者の17名には北九州も芥屋も何も出てこないから。
ブログで最初に拉致された方は1977年とあるが、私の件は1年は早いと思う。

めぐみさんは勿論のこと、全員が1日でも早く日本に帰ってこられる日を願っております。


                        



2009年8月1日土曜日

19年も淡交会の師範に関係する記憶を喪失していた

面を断つ一重まぶたの緞帳が、涙に濡れてびっしょりになるのは源流の雲が宵を上襲として太陽をも支配しているのが原因だと分かっても、噤む闇路の暗面を描写したがっているのが何時ごろの何者とは分からない、わたしだった。
そんな中、儀式めかして生けた紫陽花の参列者に囲まれ、白詰草の花鬘をかぶった七日前の許しあいから、辛うじて、その者とうずうずしていた。
だからか、黒仕立てのサテンの織物な夜へと清涼感で怯える保護鳥って感じも人間の私だった。
込みあげる風月の温もりに誘われるままに打ち解けたくても、現の闇に吹かす心の雲は物恐ろしきばかりであり、山が神々しい10年の歳月の十に八九は、「・・・あなた・・・」と、囁く顔を解き明かせない辛さにて、声真似に付和雷同している。



女々しいと笑わば笑え後の月うらやましかろ一つに二人




「テッペンカケタノ」のホトトギスは、「脳みそ欠けたの」と糾弾する。
かわいらしいコジュケイの「チョットコーイ」に聞きふけるも、「呼ばないで」と高飛車な言葉を投げて、しかとした。
言うことない持ち崩した構図で、のさばり返っていた。

こうした中での、ある年の話です。
光立つ比翼塚は奇奇怪怪なる旬の者らが目白押しに開けた。
リンドウに春ランが雲雀さえずる東風に、顔を覗かせる。
散歩道に添い寝する蕗の薹。頑張る鶯が可愛いが、じれったい。
清い流れの谷川に冬ざれで立ち明かす辛夷が、青雲と眺めの空に漫ろ歩く。
心温まる影の包容力で休息の丘が芽吹いても、梅は、やっとの思いで走り惑う。
沢辺に椿の群生は木々てんでんばらばらに振り絞るに舞い奏でている。
流れる水に吹き遊び、海を透かし織り、染め分ける。極めに蕾む。
名残りの雪が妖艶に、身動きも払いのけて、じなつく。
そして、わらびにぜんまいが春の気で許しの色する。
寝坊した日は蜩が、郭公が夢心地に目覚ましかける。

供養しな塚の絵的は「あら」の歌、
岩群青の夕霧が円卓会議で沈み繰りする。
色めかす夕日影から、匂やかな女の雨には寝たふりした仮初めの戯れは、
・・・・・まさに七夕の月も、七日だったのです。

この日の工房は何時になく静寂の深度にありました。
雨風に頭を衝かれる荒れた草の厳つい深緑も好い味だした趣から、
むずむずと寄りかかる斑に立つ霧そのものの夜の肌が、
開け放つ侘び住まいの窓より静々と礼節な湿度でにじり寄るも、嗜みでした。

「・・・いないいないばあ・・・」したいのか、
吸い寄せられるように座り心地を捨て、窓辺に歩み寄って、
千草の原を連山に追い込みながらの水滴も濡れた色を朧に染めて対面するつもりの、
甘辛なフェロモンの罠も見飽きた背景で待ち受けるのは、・・・何?
と、霧の緞帳に予期する、
雨上がりで分厚い漆黒の雨雲でも低からずに吹っ切れてるだろうと読み捨てての、
埋もれ身の心組みだったんですが・・・・・。

これを食卓に例えるならば、
ちょうど椎茸ふうに、自我を殺した松茸である。
途轍もなく並外れた快挙の顔出しにしばれる。
黒雲から透かし彫る満月を天心として、
心から楽しむ喜びへと光沢を吹き消した珠玉の同心円で咲き誇るのは、
虹ならぬ暈に色素を滲ませるも、
野暮な御託も拭き消した芸術性で、佇立していた。

なんだかんだと考え出さず、硯の海に溺れ、仄々しくも一寸法師にされて霞み渡るを観るは、
悩殺される朧月夜のマリッジリングへと魂の夜空だった。
それも、それはそれとしてのそれっきりの一夜限りで終わらず、
七夜もに繋ぎ合わせてくれたから、懸け橋となってくれたのです。

十五年ぶりらしい火星の大接近が明けて晴天の夜から月と三つ編みになり、
心得た顔でもてなしてくれる星屑に酔いしれて、
天気だけでもいいから、「毎日欠かさず、日記に一行は」を、
生かされている当直日誌が何故なのかも分からずに、書いていました。

誰のかも分からずに毎食で意味させてしまう陰膳が、やっと飲み込めました。
呼び起こされて、「居た天使だ!」と、
愛で逢いの月に、「彼女する!」へと、にこやかに思い集められました。

完全に思い出せるまでには更に八年の歳月が流れます。また忘れるのですが。
が、翌月の六回忌には東京から出席した弟子の娘とも偶然に知り合えて、師範の思い出話に花を咲かせられました。この弟子の子との出会いがなければ、私は間違いなく、立ち直れなかったでしょう。
弟子の娘と別れてからは、また師範を忘れ、次に思い出した時は2000年にもなっておりました。               




暮れなずむ烏瓜持つ冬の野は人魂なりし白骨の命




野の花に見えざる素顔冬の蝶妻恋い鳥(雉)は駆けずるばかり




森の弁しっとり刻むおかんむり匂い溢るる今日は二度なし




花筏利休鼠寄り添いて父母へと流れ男に映る





身で詫びる無言詣でやまだ七年





そういえば、今夜は大濠花火大会だ。
ポンポン上がってる。昔は毎年楽しみにして、出かけたものだが・・・。
柔らかい活字も入れとかないと何だか頭が痛くなったような気が・・・・・
私は、この大濠公園そばの大濠高校出身です。思い出した。